くそったれのジャクソン

気にするなジョニージョニージョニー、行けよジョニー。

フィクションを現実にした三浦春馬

 少し前、三浦春馬さんが亡くなったときに思ったのは「おお、映画と同じじゃん」ってことだった。

 

 映画ってのは昔三浦さんが出演してた『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』って作品で、三浦さんはその中で能登って高校生の役だった。主人公の山本(市原隼人)の友だちで、死んだ友だちって役だった。

 

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遅刻の罰にグラウンド10周。マジになるようなことじゃない。なのにあいつはガムシャラに走っていた。

 

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いつも冷めてる能登が突然怒り出し、ムチャクチャな行動に出ることがあった。何がヤツをそんなに怒らせたのか。多分許せなかったのだ。いろいろなことが。

 

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 能登はそういうヤツで、そんでバイクで事故って死ぬ。というか自殺する。

 

そして、オレはいつだってあいつから周回遅れで走っていた。

 

 山本は能登に憧れていて、特に能登が自殺したことに憧れている。そういうやり方で現実から逃げ切ったことを。そういうやり方で自分の怒りを表現したことを。

 

 何かが間違ってる、納得いかない、今がイイとは思ってない、今の先、未来が良くなるとも思わない、変わることも変わらないこともイイと思わない、何かが違う、完璧じゃない、幸せじゃない、くだらない、――だけどそういう感情のぶつける先が分からない、表現の仕方が分からない、いや分からないというかぶつける先なんかこの世界に存在しない、表現の「手法」なんざこの世界に存在しない、まぁ強いて言えば今すぐ死ぬこと、バイクで全速力で突っ込んで今すぐに自殺することがかろうじて「冴えたやり方」で、けど大抵のヤツらはそんなふうにはやれない、能登のようにはなれない――そういう焦燥や息苦しさってのがこの映画のテーマで、そんで、主人公は「チェーンソー男」って怪物、まぁ主人公とヒロインのその妄想、共同幻想と戦うことでそうした現実、戦うモノなど存在しないって現実から逃避してる。逃げてると分かってるからこそ死んだ能登に憧れてる。死んだ能登のように自分も、この妄想の果てにチェーンソー男に殺されることを願ってる。夢見てる。そして夢から覚め、生き続ける。

 

 この映画で一番いいシーンは山本・能登・それとふたりの友だち、渡辺(浅利陽介)の3人がバンドをやって曲を演奏してるシーンだ。っつってもそれは実現しなかった風景、山本と渡辺の「妄想」の光景だ。

 

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 これが感動的なのは、これがしょぼいからだ。つまり感情のぶつけ先がない、自分のこの焦燥感や怒りの表現のやり方がないってことのその表現のやり方がロックバンドをやるとかいう死ぬほどありふれた、陳腐でちんけなモノだからだ。山本も渡辺も、そんで能登(いや正確には山本と渡辺ふたりの想像上の能登、死ぬことができずにだらだらと自分たちと一緒に生きてるはずだった架空の能登)も、例えば汗流してボール追いかけ回してる高校球児とか学園祭で友だちどうしでバンド組んで体育館でそれを披露してるようなヤツら、それで何かをやった気になってる、充実した気になってるようなヤツらと自分は違うと思ってて、そんなことをやっても自分たちのこの感情は晴れたりしないと思ってて、けどその発露の仕方は結局その「青春ごっこ」と同じようなカタチしか取れない、どこかで聴いたような詞とメロディーのしょぼいポップスにしかなってない、――そのモノ悲しさ。どうにもならなさ。「こんなもんじゃどうにもならない」はずだった自分が、「こんなもんでどうにかなってる」ヤツらと同じことをしてる、結局自分も、他のヤツらと同じことしかしてない、同じことしか考えてない、同じでしかない、そうなっちまう、みたいな、そういうふうに自分の中の言いようのない感情、「何か」が矮小化していく、何もあったことにならなくなっていく、ひと山幾らの「青春の蹉跌」、「若者の葛藤」ってモノに回収されていく、そういうのがすげぇ残酷に現れてるシーンで、だからこそめちゃくちゃ泣ける、感動するシーンだと思う。

 

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――この映画は10年以上前(2008年公開)の作品で、多分別に三浦春馬さんの代表作ってわけでもなくて、でもこの作品が好きだった自分からすりゃ三浦春馬って言えば真っ先にこの作品がアタマに浮かんで、そんで死ぬほど単純に、「自殺」ってことだけでこの作品の三浦春馬と現実の三浦春馬を結び付けてる。「フィクションを現実にした」とか思ってしまってる。だらしなく接着させてる。

 

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 この作品以外でも自殺する役、若くして死ぬ役、まぁなんやかんやで死ぬ役、とかなんとか、そんなのは多分三浦さんは幾らでもやってて、現実の三浦さんの死でそのそれぞれの作品がそれぞれのヒトに思い出されて、連想されて、結び付けられて、思いつかれて、いや死ぬ役がどうとか関係なく、三浦さんの死で三浦さんが演じてきたフィクションが、台詞が、雑誌の取材が、インタビューが、言葉が、振舞いが、楽屋での一面が、一挙手一投足がそれぞれにあれこれと思い返されて呼び返されて現実の三浦さんとの「共通項」や「対称性」が「発見」されて、思いつかれて、「奇しくも」とか「皮肉なもんだ」とか「暗示されて」とか「裏腹に」とかなんとか言われて、思われて、みたいなことを思うと、まぁ有名人ってのも結構大変だな、しんどいんだろうな、とか思わなくもない気もする。死がただの死にならない、意味のない死になれない、みてぇな。いや死というかその1秒1秒が、呼吸が、身じろぎが、みたいな。何をやっても無意味にならない、何もかもが伏線になる、自分以外のヤツらに喋られる、感傷の道具にされる、すべてが象徴的行為と化してる、すべてが、その人生すべてが「比喩」になっちまってる、「フィクションを現実にした三浦春馬」みたいなアホなことを死んでも言われてる、そこらじゅうでやられてる、いやなかなか、だるいだろうな、みたいな。意味にまみれてゲシュタルトの崩壊もできねぇよ、みたいな。「有名税」もなかなか大変ですな、みたいな。首を吊ってもあんたは俺たちから解放されねぇよ、みたいな。俺たちを周回遅れにはしたかもしれないけど、でも結局、同じトコをぐるぐる回ってるだけだぜ、あんたは俺らから、この世界から、意味から逃げられないわ、みたいな。

 

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ (角川文庫)